弁護士によるコラム

被災地のなんでも相談を経験して

 山崎 和成

弁護士ほど有事の際に役に立たない仕事はないなぁ。しばらくはお小遣いを寄付しながら馬鹿な自粛などしないで普段どおり酒でも飲もうか。3月11日以降、テレビで繰り返し報道される大津波の映像を見ながら、そんなことを考えていた。

ゴールデンウィークに入った頃、日弁連が被災地での法律相談担当者を募集していると聞き、迷わず手を挙げた。瓦礫の撤去には力不足だが、法律相談なら何とかなりそうだし、何より被災地の惨状を自分の目で見ておきたかった。それに相談担当日の5月31日は、関西屈指の名門ゴルフコースを予約していたが、4月下旬に甲子園で右中指を骨折していたため(詳細は恥ずかしいので割愛)、幸か不幸か、丸一日予定が空いていた。

5月30日の夜にバックパックを背負って岩手県盛岡市に入り、その日の相談担当者で宮古 市から帰ってきた赤木先生と盛岡市内の寿司屋に入った。被災地でお金を使おうということで、 名物いちご煮(ウニとアワビなどが入ったすまし汁)や地酒を頂いたが、そんな我々の心配を よそに、盛岡市内の盛り場は震災の影響もなく活気に溢れていた。

翌31日午前9時盛岡駅前に集合し、岩手弁護士会の会員2名の車に県外からの弁護士6名が分乗して被災地である沿岸部の大槌町へ向かった。県道が未だ通行止めの箇所もあるとのことで、遠野、釜石経由で大槌町に入った(所要時間約3時間、岩手県は四国とほぼ同じ面積があるらしい)。釜石市に入ったあたりから倒壊した建物や瓦礫が急に現れ、町長さんも行方不明になった大槌町の集落に至っては、言葉を失うほどの壊滅状態だった。埃とコールタールと磯の臭いを混ぜたような独特の臭いがした。

私は岩手の望月先生と二人で大槌町かみよ稲穂館という避難所(40名くらいが生活)の担当となった。午前中に神奈川県の保健師さんらが健 康相談を行っていた避難所の一室を明け渡してもらい、午後1時から法律相談ではなく「(弁護士による)何でも相談」と勝手に銘打って相談を開始した。望月先生によると、岩手県の人はシャイなので法律相談という敷居の高そうなネーミングはよろしくないらしい。

ただ、この日は花巻温泉のホテルが被災者を温泉に招待しており、半数近くが外出していたこともあって、 なかなか相談者が訪れない。暇をもてあました私は、バックパックに入れてきた梅干しを手に持って、「和歌山から来ました。」と挨拶しながら、被災者の人達と世間話を始めた。すると、「こんなこと相談して良いのか、わからねぇけど……」と心配事を尋ねてくれた。私が受けた相談件数は、わずか3件であったが、印象に残ったので概略を紹介してみたい。

(1)住民票は世帯分離の上で大槌町においたまま、釜石のグループホームで生活しており被災した母親について、大槌町役場で被災者生活再生支援金を申請したが、グループホームにいたことを告げると拒否された。賃貸住宅の入居者にも支援金は出ると聞いていたのにおかしくないか。(少しは勉強していったが分からない。望月先生が役場に問い合わせるなどして解決。弁護士1年目だというのに偉いぞ!)

(2)震災後も地元の介護施設で一日の休みもなく勤務を続けてきたが、遠隔地に移住することになったので、依願退職したい。職場の人に迷惑のかからない退職の仕方はあるか。6月末のボーナスをもらっても本当に良いのか。(自分のことより周りの人を気にかける優しさに感動しながら、退職願の書き方や賞与の支給日在籍要件などを説明)

(3)自宅が大規模半壊と認定され、罹災証明も出ているが、補修の加算金をどうやったらもらえるか。地元の大工さんも流され、大槌には正規の修理業者がいないのに、役場からは業者の領収書を持ってこいと言われて困っている。自分で何とか直したい。(うーん難問。行政との交渉の仕方や提出書類などを説明し、悪質リフォーム業者がいることを注意)

こんな感じで難問続きの何でも相談を終え、午後7時過ぎの飛行機に乗らなければ翌日の裁判に穴を開けてしまうので、花巻空港へ走った。道中、釜石で間一髪で津波から逃れたというタクシーの運転手さんが「震災から1ヶ月ぐらい経って釜石に電気が復旧した時が一番嬉しかった。家族全員で抱き合った。」と言ったのが印象的だった。「戦争が終わって平和を実感したのは、灯火管制がなくなり、紀ノ川平野に家々の灯りが点いた時だった」という昔よく聞いた話と重なったからかも知れない。

以 上

注:和歌山弁護士会「会報(第79号)」(2011年12月発行)より転載。