声明・談話

カレー毒物混入事件についての報道に関する会長声明

2000年(平成12年)2月2日
和歌山弁護士会 会長 山口 修

当会人権擁護委員会は、平成10年9月3日に申立のあった平成10年(人)第3号人権救済申立事件について調査・検討した結果、人権侵害の事実を認め、警告相当の決定を行った。この決定を受けて、当会は下記の通り声明する。

1 平成10年7月25日、和歌山市園部地区においていわゆる毒物混入カレー事件が発生し、その後、同年8月25日付朝日新聞朝刊において同地区の特定の夫妻(以下、申立人夫妻という)に対する保険金詐欺疑惑が報道された。この報道以降、申立人夫妻宅に多数の報道関係者が押し掛け、申立人夫妻宅周辺を一日24時間中監視するかのような取材活動を行うようになった。すなわち、多数の報道関係者は、申立人夫妻宅周辺に多数の脚立を立て、申立人夫妻はもちろん、申立人夫妻の子ども達や申立人夫妻宅への外部からの訪問者についても張り付いて逐一取材を行い、写真撮影・ビデオ撮影を行った。その結果、申立人夫妻が自宅を出入りすることはもちろん、子ども達の通学にも支障を来し、また、外部からの訪問者も申立人夫妻宅に自由に出入りすることができず、申立人夫妻宅周辺はきわめて異様・異常な状態となり、かかる異様・異常な状態は少なくとも申立人夫妻が保険金詐欺被疑事件で逮捕された同年10月4日まで続いた。

もとより当会は民主主義社会における報道機関による取材活動の自由について十分尊重すべきものと考えているが、しかし、本件における多数の報道関係者による上記取材活動は、明らかに取材活動の自由の限界を超え、申立人夫妻及びその子ども達のプライバシーの権利及び平穏な生活を営む人格的権利を侵害する違法なものであったといわざるをえない。

よって、当会は、本件取材に携わった各報道関係者に対し、申立人夫妻及び子ども達の人権を侵害した上記取材活動について真摯に反省することを求めるとともに、今後、被取材者の人権を侵害するような取材活動を行わないよう要望する。

2 また、報道機関の中には、申立人夫妻が保険金詐欺被疑事件で平成10年10月4日に逮捕されるより前の時点において、園部地区民家等の表現ではあったものの、「被保険者に無断で生命保険契約を締結した」、「生命保険の被保険者が砒素中毒を起こした」などと断定する報道を行ったものがあった。

申立人夫妻が逮捕されたその日からは、各報道機関は申立人夫妻の実名を報道し、申立人夫妻が保険金詐欺被疑事件の犯人である旨断定したと解されるような報道を行うとともに申立人夫妻が毒物混入カレー事件と関係するかのような報道を繰り返し、中には事件とは無関係な申立人夫妻の名誉や人格そのものを毀損するような内容の報道も見られた。その後、申立人(妻)が毒物混入カレー事件に関する殺人及び殺人未遂被疑事件で再逮捕されるや保険金詐欺事件と毒物混入カレー事件との関連性を強調する報道も見られた。

ところで、刑事手続における被疑者・被告人には「無罪の推定」の原則がある。これは近代的な刑事司法の大原則であり、その罪責が適法な手続を経て立証され、有罪の判決が下されるまでは、被疑者・被告人は、できるだけ「罪のない人」として扱われなければならない。その上、名誉という法益は、その性質上、一旦侵害されるとその被害の回復が非常に困難であること、冤罪であった場合取り返しのつかない深刻な被害を被報道者に与えることに鑑みると、報道機関による犯罪報道においては被疑者・被告人を犯人と断定しない節度ある慎重な報道が望まれる。

ところが、本件における各報道機関の上記報道内容に鑑みれば、未だ有罪の判決が下されていない申立人夫妻を保険金詐欺事件及び殺人・殺人未遂事件の犯人である旨断定するかのごとき報道を繰り返した。これは、刑事手続上被疑者・被告人に保障される「無罪推定の原則」の理念に抵触し、公共的役割を担う報道機関としてはおよそ不相当といわざるをえない報道内容であった。起訴後の公判において、申立人夫妻は保険金詐欺被告事件については起訴事実を認めた旨報道されているが、起訴事実を認めたからといって「無罪推定の原則」がなくなるものではなく、あたかも犯人であるかのごとく断定して報道したことが正当化されるものではない。加えて、申立人(夫)については殺人・殺人未遂事件につき逮捕・起訴されなかったのであるから、「無罪推定の原則」の理念との関係でより問題があったといわざるを得ない。

さらに、報道機関の中には、保険金詐欺事件や殺人・殺人未遂事件とはおよそ関係ないと思われる申立人夫妻の経歴等を興味本位で取り上げた報道も少なからず見られたが、これらは申立人夫妻のプライバシー・名誉を中核とする人格権を侵害するものであり、申立人夫妻のみならず、申立人夫妻の子ども達にも過酷な影響を与えるものである。

もとより当会は報道機関による報道の自由について民主主義社会を支えるものであり、国民の知る権利の観点からも、憲法上保障されている重要な権利であると認識している。しかし、「無罪推定の原則」の理念に抵触し、また、国民の知る権利の観点からしても被報道者の人格権を侵害する報道まで容認されるものではないと考える。

よって、当会は、上記のような内容の報道を行った各報道機関に対し、刑事手続上の「無罪推定の原則」の理念に抵触し、申立人夫妻及び子ども達の人格権を不当に侵害した報道内容を真摯に反省することを求めるとともに、今後、犯罪報道に当たっては被疑者・被告人の「無罪推定の原則」に思いをいたし、被疑者・被告人の人格権を不当に侵害しないよう要望する。

3 なお、報道機関による取材活動は、平成10年7月25日の毒物混入カレー事件発生直後から、和歌山市園部地区において戸別訪問等の形で執拗に行われ、一歩外へ出れば取材攻勢に会うなど同地区住民の平穏な生活が侵害される事態が生じ、同地区住民の中にはインターホンの電源を切る等の措置をとって取材を拒否するところもあった。

当会は、既に平成10年9月10日付会長声明において、報道機関に対し、地元住民の気持と立場や状況に配慮した節度ある取材・報道姿勢を取られるよう強く要望したところであるが、遺憾ながら同声明後も過剰な取材活動により同地区住民の平穏な生活が侵害される状況が継続した。

よって、当会は、本件取材に携わった各報道関係者に対し、あらためて同地区住民に対するこれまでの過剰な取材活動を反省することを求めるとともに、今後、住民の平穏な生活を侵害するような取材活動をしないよう、併せて要望する。

以上